昭和44年4月26日 夜の御理解
(途中から)使い方一つでおかげを受ける生き方。おかげの頂けない生き方。お徳を受ける、有り方。そういう事ではお徳は受けられないという有り方。もうその辺の心の動き。ちょっとしたことが、そういうおかげを頂く、頂かないのところになりますから、お互いが出来るならば、一つお繰り合わせを頂いて、おかげの受けられる方の道を通らせて頂くおかげを頂かなきゃいけん。ね。
今日はあの、宮の陣教会の、御大祭で、若先生がおかげを頂いて、ここから徹さんが朝、あのお共して行きました。帰って来てから、お食事を今日一緒に、コタツの間でしましたから、その中であのあちらから頂いてきておる御直会をちょうどあそこで開いて、まぁ一緒に頂いたんですけれども、本当にあの、鳥栖の先生のことを話ておりましたが、もう感心だの、その、(えらいおごちそう?)があるとですよね。
と、家あたりのはもう、たいていもう食べてしまえれるようなもんだけですから、その大したお土産に持って帰るようなもんないですけれども、他所あたりはこう、お土産に持って帰る(ように?)してあるわけですね。それをまぁ頂いて帰って来たんです。
それに、あの、鳥栖の、あの正昭先生ですね。えー、まだここの若先生から二つか三つ(確か?)同じでしょう。で、最近奥さんをもらわれて、この頃赤ちゃんも出来られた。
それに、もう僕は感心することにあの、正昭さんはもう絶対他所の大祭に行ってから、自分が前に出たお膳には、はしを付けないち。もうその持って帰られんもんだけを食べる。
そしてそれを、綺麗にやっぱりして、結局奥さんが一人待っちゃる。まぁ教会の生活というものはたい、それこそやっぱり厳しいもん。ここあたり、(なんや?)ところはこれはもう特別ですよね。もうそれは格別なんです。
どういう大きな教会でも、家あたりのようなとこはもうどーこもありゃしません。ね、それからあの、例えばなら、あぁいう九州の生神様のようにいわれて、桂先生のお広前ですらが、とにかく、その、おかゆさんで今日は奥様が魚ば買いござるけん、今日は魚が食べられるぞというて、修行生が楽しんでおる。
ところがもう細魚のこまかつが一匹ずつげな。ほれでもうその、おかゆさんなんかでも、あちらのは、その目玉がえちうて。目玉がえちいうそん名がついとるほどしのおかゆじゃった。
もうとにかく、(?)自分の顔を持って行くと、なんかきらきら光りよるげなもん、なんの自分の目玉がうつっとるとげな、(はがわ?)の中に。というようにね、ざぶざぶのおかゆじゃったち。
そすと、あぁいう大きな教会ですから、お客さんがずっとありますよね。二人あると、奥様がこうやって、しなさるそうです。3人あんた、こうやってその、買ってやる方にしらせなさるそうです、3人あると(ししゃく?)3倍薄めなさるそうです。
ご飯は、米の方はもう日にどれだけの米というように、以上は使われなかった。だからもうお客さんのあると、修行生は、あー今日はまたざぶざぶのおかゆ食べんならんというて、いうとったというぐらいな修行させて頂いた。
ここあたりはもう、それこそ飲み放題、食べ放題ですけれどね。というほどにおかげ受けておる事ですから、けれども、他所の教会あたりの本当に人が助かることのための修行(中は?)ただならない事だとこう思う。
ね、正昭先生は、もう決して、その勝彦はそれを気が付いているんですよね。もう、もう持って帰られるというものはもうみんな(おり?)に入れてから、持って帰る。いわゆる奥さん孝行といやそれまでばってん、例えば教会の生活というものが、魚一切れ(そう?)頂けるもんじゃないから、ならせめて、たまにはその御大祭、他所の大祭の時ぐらいは、( ? )一つ食べさせてやりたいというその、主人のね、心使いだというわけなんです。
それからあの、この頃、この大祭にも、星野の若先生が見えて、何時も見えるのに、みえてませんでしたから、どうしたことじゃろうかというて、言うておりましたら、それがあの、鳥栖と話し合いしよったのに、もうあの正昭先生。もうお互いじゃけんで、もう大祭頂きやせんごつしようじゃんのと、お互い遠いから。
というようなことで、ここには見えなかったらしいんです。ね、なるほど、それだけ、まぁ一人先生が見えれば、一人分お膳箱作らなきゃならんから、それだけでもやっぱり五百円千円は違うでしょう。
ね、けれども、大祭のごひれいを落としてまで、例えばそういう、しかも弟子兄弟同士であるからね。ここ、例えばここやら、星野やら鳥栖、鳥栖とはそういう事なですけれども、ならそのせっかく年に何回かの大祭に、その自分の弟子兄弟のところの大祭に、楽しんで行こう、来れといわなきゃならんのに、もうこれで合い違いにもう行くまい、お初穂もせん。いく、もう大祭にも参加しないようにしようじゃないかというていわ、その言われておったのを聞いて、そのこりゃ家も行ったら、かえって悪いのじゃなかろうかていうて、今朝いうてるんですよ。
ね、そこにね、一つ皆さんが分からにゃならん事は、どういう生き方がおかげが受けられるかという事を、どちらの生き方が、おかげを受けられるかという事をね、一つ考えてみなければならんとこう思うんです。ね。
なかなか、信心させて頂きよっても、そこに右の方をとりゃおかげの受けられる道。左の方じゃおかげの受けられん事が分かっておっても、人間の一つの我情というかね、人間の惰性というか、そういうものが、そのおかげの受けられない方をとろうとしたが、信心させて頂く者はその辺のところを、しっかり肝に命じて、例えばもう本当にあの、御大祭を賑やかに本当に神様に喜んで頂くおかげを頂くためには、本当に来て下さる先生がなら一人でも来て頂いて、にぎやかにつかえさせて頂こうと。
自分の食べるの食べんでも、他所の先生には来てもらおうといったような中にね、神様の生き生きとした働きが頂けることは、これは私は体験させ…、ね、今のようなことじゃなかった、やっぱり以前は、あーそれこそお大祭にですら、もうおかゆさんでも良いじゃないかと。
家内が、あんた来て頂いたっちゃ何を出しますかち。はー家おちゃゆさん頂きよるけんおちゃがゆさんで良いじゃないかと。けれどもやはりおちゃがゆさん出したことなかった、やっぱそん時はそん時なりにちゃんと、お繰り合わせ下さりよったんですけれど。
ね、おかげの受けられる生き方、または、おかげの受けられない、それではおかげが受けられない。それではますます自分をせもうしていくといったような生き方があるから、よう考えとかにゃいけんと思うね。
とにかく、こう考えて見る、遊びに行く。ね、信心の方へ行くと。ね、今日も、そういう方があった。明日久留米の御大祭だと。ほれで、おかげ頂こうと思いよりましたけれども、明日お茶の稽古日ですから、ご無礼せんなりますまいと、こう言うわけなんです。
ね、そりゃあんたおかしいじゃないかと、私は言いたいけども、こればっかりは、教えたからと(いいきることじゃない?)自分自身がお茶の稽古なんか、いうなら何時でも良い。どうでも良いぐらいなものですよね。
御大祭といや、その、そりゃ年に、やはり、春の大祭といや一回しかないお大祭の方を、そういう時にね、とらせて頂ける元気な心。そりゃ遊びの方がよかかもしれん。けど、そういう時に、私は信心の方をとらせて頂く頂き方を、稽古させてもらわなきゃいけんと思うな。どうぞ。
梶原 佳行